直江兼続の戦略を阻んだ関ヶ原の「想定外」との戦い【前編】
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第11回
■秀吉死後の混乱を想定していた兼続
兼続は秀吉の死後に政権に亀裂が入り、また戦乱が始まる事を想定していたかのような行動をしています。越後から転封の際に兵糧を全て持ち出し、加えて会津領内の諸城の改修を始め、国の防備を高めています。
兼続は戦時体制を意識しながら領国統治を進めていたように見えます。ただ、その動きは、周辺の堀家や最上(もがみ)家から謀反の疑いとして家康に報告されてしまいます。皮肉にも、この動向が発端となり会津征伐が発令され、天下分け目の関ヶ原の戦いへと繋がっていきます。
兼続は堀家が治める越後で国人一揆を煽動(せんどう)し、その間に最上家と伊達家を服従させて、東北で一大勢力を築き、家康に対抗する計画だったようです。
途中までは、兼続の想定内で進みます。堀家は一揆と対峙させられ、伊達家は上杉家との直接対決を避けて南部領へ食指を伸ばします。そして、対決姿勢を崩さない最上家に戦力を集中投下し、短期で決着をつけようとしました。
しかし、ここで複数の「想定外」の出来事が起こります。
■関ヶ原の戦いでの複数の「想定外」
一つ目は堀家による一揆の早期鎮圧です。二つ目は最上家の長谷堂城での2週間もの足止め。そして、極めつけは関ヶ原の戦いが1日で決着がついてしまうという事態です。
堀直政(ほりなおまさ)は石田三成(いしだみつなり)を欺(あざむ)き、兼続を油断させて越後国内の一揆を鎮圧してしまいます。長谷堂城での戦闘では最上家の鮭延秀綱(さけのべひでつな)が奮戦し、後日兼続から褒賞されたとの逸話もあります。関ヶ原の戦いでは、黒田長政(くろだながまさ)たちの調略により、短期間で東軍の勝利となります。
兼続は心のどこかで、他家の人材の能力や手腕を見くびっていたところがあったのかもしれません。自分の想定を超えることを想像していなかったように思えます。政宗への無礼な態度など、そういう逸話も多いのが兼続らしさでもあります。
ただ、関ヶ原については、黒田孝高(くろだよしたか/官兵衛/かんべえ)でさえも、1日での早期決着を予想していなかったようなので、「想定外」の出来事であることは当然かもしれません。
このような「想定外」の事態の後で重要となるのは、「冷静に状況を把握する」「最善と思われる解決方法で対処する」「再発防止に努める」の三点です。敗戦後、兼続はこれらを踏まえて上杉家の舵取りを続けていきます。
●後編は12月30日金曜日に配信
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